『ガイアシンフォニー(地球交響曲)』という映画の中で、ジェリー・ロペス (イタクラさん) はヨガをやりながらサーフィンとスピリチュアルについて語ってましたが、サーファーというのはスピリチュアルな人が割と多いように思います。

 

僕もこれまでスピ系のサーファーにはちょいちょい会ってきましたが、一度、こんな話になったことがあります。

 

「スピリチュアルは宗教か否か?」

 

その彼は、

「スピリチュアルは宗教じゃない!」

と断言してましたが、スピリチュアルに興味がない人から見れば、スピリチュアルって宗教以外の何物でもないと思うし、ともすれば宗教以上に怪しいと感じるかもしれません。

 

そもそも宗教とは?

「何をもって宗教とするのか」という定義は、実は宗教学者、神学者の数ほどある言われています。

 

明治時代以前の日本には『宗教』という概念自体がなく、『宗教』という言葉は明治維新の頃、【religion】として日本に輸入され、その訳語として生まれました。

 

では、それまでは日本という国には宗教がなかったのかというと、そんなことはありませんね。

 

別に【宗教】という言葉を使わなくても、仏教、神道、儒教、アニミズムといった信仰を持っていました。

 

日本人って無宗教なの?日本人の宗教メンタルブロック

日本人の多くは宗教を聞かれた時、「無宗教」だと答えたがります。

 

これを僕は「特定の宗教を信仰しているわけではない」という風に解釈していて、これは多くの人が納得するところだと思いますが、それに加えて、日本人が無宗教を主張する理由はどうも別のところにもあるようです。

 

日本人というのは、そもそも『宗教』という言葉自体にアレルギーを持っています。

 

それもこれも、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件によって、

宗教 = 新興宗教

というイメージを刷り込まれており、それが心理的ブロックになっているからです。

 

 

そんな経緯もあって、日本では

宗教 → 怪しい

という図式が成立していて、みんな無宗教を主張したがるわけですが、これって実は日本人が陥りやすい『ガラパゴス的現象』だったりします。

 

日常的に宗教しまくっている日本人

海外では、

宗教 = 道徳・生き方

という構図はごくごく普通のことです。

 

 

例えば、キリスト教圏では、キリスト教による倫理観・価値観をみんなが採用することで、それぞれがキリスト教的なモラル(道徳心)を共有しています。

これによって法律による明文化以前の根本的な秩序が保たれているんです。

 

つまり、

キリスト教を信仰している=キリスト教が持つ道徳観を持って生きている

という認識なわけです。

 

 

だから、もし日本人が海外で

「わたし無宗教ですけど何か?」

みたいなことを言っちゃうと、

「こいつはモラル(道徳心)を持ってないヤツだ」

と見なされかねません。

 

 

でも、実際のところ、日本人というのは宗教的で外国人よりもはるかに信仰深かったりします。

 

 

例えば、毎年、お盆になると家族で先祖を迎えるし、正月にはみんな揃って近くの神社へと初詣にも行きます。

 

また、合格祈願や安産祈願で神社に行くことも、いたって普通です。

 

普段、当たり前のように目上の人を立て、相手に敬意を払うときは頭を下げてお辞儀(礼)をすると思います。

 

食にの前には手を合わせて「いただきます」をするし、ご飯に箸を立てて出されたら怒り出すはずです。

 

 

つまり、日本ではあえて『宗教』という言葉を使う必要がないくらい、生活の中に宗教が浸透しているんですね。

 

外国人視点では完全カオス状態の宗教観

僕の実家もそうでしたが、田舎の家なんかでは仏壇と神棚があるところも少なくないと思いますが、これって家の中にミニチュア宗教施設があるようなものです。

 

しかも、多神教の国ならではですが、仏教と神道が共存しています。場合によっては、仏壇のある部屋にクリスマスツリーを置くなんてことも何の抵抗もなくやってのけるでしょう。

 

西欧文化圏の人に見せたらきっと驚くと思います。教会とモスクの組み合わせなんかは絶対にありえないですからね。

 

日本人の宗教観って外国人目から見ると、完全に理解を超えているかもしれません。

結婚式で牧師の前で愛を誓ったかと思うと、葬式では仏教式でお経付き、それに七五三、クリスマス、七夕、ハロウィン、雛祭り、バレンタインと、もう完全にカオス状態です。笑

 

スピリチュアルとは

話をスピリチュアルに戻します。

 

「スピリチュアルには組織化された教団も、教祖のような絶対的なシンボルもないから宗教ではない!」

という主張を目にすることがありますけど、そもそも、宗教の定義自体が曖昧なので、この辺はどうとでも言うことができます。

 

スピリチュアルの宗教的要素

スピリチュアルを宗教だと断言する必要はないと思いますが、少なくとも、スピリチュアルには宗教的要素が盛りだくさんだったりします。

 

例えば、その他の宗教に教義があるように、スピリチュアルには『教え』があります。

 

スピ書の代表格である『神との対話』『バシャール』も、内容はどう見ても『教え』です。

輪廻転生についてだって、しょっちゅう言及されます。

思いっきり『神』って言っちゃってますし、『愛』『祈り』といったものにもことあるごとに語られています。

 

スピリチュアルについての知識がない人に、スピで語られていることの内容を説明したとしたら、10人中9人は宗教って言うと思います。

しかも『怪しさ』の念を込めて。笑

 

 

スピリチュアルで『神』という言葉が使われる場合、それは大抵、『目に見えない大いなる存在』のことを指します。

 

スピリチュアルとは情報をストーリー化したもの

僕らが生きるこの世界は、目に見えない法則で溢れています。

 

例えば、時間、重力や磁力、熱エネルギーや振動エネルギーといった諸々のエネルギー、音波や電波、意識や生命などです。

 

スピリチュアルとは、そういった

世界を構成する背景情報を、自己成長(魂の成長)という目的を持って、
スピリチュアルという物語に乗せて語ったもの

だと僕は考えています。

 

 

だから、スピリチュアルについて理解すれば、より幸せに生きていくことができるわけですが、実は、スピリチュアルには『落とし穴だらけ』だということも、同時に理解しておく必要があります。

 

ふわふわスピリチュアルに潜むワナ

ほとんどのスピ系の本って、ふわふわした曖昧な表現が使われています。

 

スピリチュアルと出逢って感銘を受けた人たちは、 往往にしてこれらの本を手に取りますが、この段階って実は、けっこうリスキーな段階なんです。

 

どうしてかっていうと、スピと出会ったばかりの人たちは、それまでの人生とは違うスピという新しくてちょっと高尚な生き方に出逢った感覚があるので、これらの本を繰り返し何度も読み返します。

 

いや、別に本の内容自体はわるくないんです。

 

ただ、書かれていることは本質論ではあるけれど、同時に抽象論でもあるんです。つまり、地に足がついていないわけです。

 

で、その表現の抽象性というのは、スピに対する理解が深まっていない人にとって落とし穴が盛りだくさんなんです。

 

 

例えば、スピ系の世界観って『許し』にあふれています。

 

 

「あなたはそのままでいいんです」

「あなたはそのままで十分に素晴らしいです」

 

といった決まり文句はその典型です。

 

 

確かに、その通りなんだけど読む人によっては、『現状に対する執着』を容易に生み出してしまいます。

 

例えば、現状に満足してない人が、スピリチュアルが提示する「あなたはそのままでも十分素晴らしい存在なんです」という文言を真に受けることで、いつまでたっても現実を変える事ができないという無限のループにハマっちゃいます。

 

 

また、ふわスピ信者に多い、

「わたしムズカシイことわかんなぁい」

って人は、

「あなたはそのままで十分素晴らしい」

なんて言われると、

「ああ、こんな私でもいいんだ。」

って信念を強化していきます。

 

 

これが現状に対する執着になってるし、思考停止状態の自分を自分で育てるという落とし穴にもハマってますね。しかも、『ふわスピ系の人』はスピリチュアルリテラシーが低いので、自分がハマっていることに気づくことができません。

 

 

そして、自分の抽象度の低さから、自分より抽象度が高い人の意見に対して盲目的になりやすいし、『ふわスピ本』で言われていることを盲信しやすくなります。

 

だから、どうしても他力本願的になってしまうし、依存体質になってしまうんですね。

 

 

スピリチュアルを盲信しちゃってる人たちって、出口のない迷路にハマって外に出れなくなっちゃってるような感じです。

 

そうなってくると、もう自分で人生の主導権を持つことが難しくなってきますね。 

 

結局は・・・

「スピリチュアルは宗教か否か?」

ということなんですけど、結局のところ、僕はどっちだっていいと思ってます。

 

スピリチュアルが宗教であろうと宗教ではなかろうと、スピリチュアルというもの自体は変わらないからです。

 

ただ、そうは言っても、宗教に対するメンタルブロック(マイナスイメージ)があることで「スピリチュアルは宗教じゃない!」って主張するのは、ちょっと違うかなと感じますね。

 

メンタルブロックがあるとニュートラルな視点というものを失いますから。

 

 

以前、神道家の羽賀ヒカルさんが、

「神がいようがいまいがどっちの立場でも説明できる」

と言っていたんですけど、こういった視点を持つことが必要だと感じてます。

 

 

人生というのは、自分が採用した脚本(パラダイム)に沿って進んでいくので、なるべく多くの脚本を持っていた方が人生の可能性というのは広がるわけです。

 

 

輪廻転生(というパラダイム)を信じている人で、「前世でこうだったから、自分は今世でこんな人生を送っているんだ」って考えちゃう人がたまにいますけど、これって人生を自分でコントロール不可能なものにしてしまってます。

 

 

宗教にしろ何にしろ、脚本(パラダイム)というのは自分で選択可能で、僕らはそれを『幸せを最大化させていくこと』に使えばいいと思ってます。

 

 

僕もかつてはそうでしたけどスピリチュアルをアプリオリなものとして捉えている人って、そこに囚われてぐるぐると出口のない迷路に入り込んじゃってる人が思いの外たくさんいます。

 

 

そういう人にこそ、『ふわふわスピリチュアル』から早めに卒業して、『パラダイムを採用する』という一段、抽象度の高い視点を持って欲しいですね。

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