サーフィンを始めた頃に繰り返し観た映画『Step Into Liquid』の中に印象的セリフがあった。

 

正確には覚えてないが、こんな感じだったと思う。

 

「自分がプレイするフィールドをただ眺めに行くのはサーファーくらいだろう」

 

この言葉はサーフィンというスポーツが持つ『特殊性』を象徴しているように思う。

 

 

僕は千葉県でサーフィンを始めて、それに魅了されるまで、そんなに長い月日を必要としなかった。肌に合っていたのだろう。

 

1970年代、サーフィンはカウンターカルチャーの影響を強く受けて、他のスポーツにはない独自のカラーを持った。

 

音楽と結びつき、

アートと結びつき、

ファッションと結びつき、

ヨガと結びつき、

自然と結びつき、

旅と結びついた。

 

当時、地に足をつけずにふらふらしてた僕は、疑いの余地なく「これだ!」と思った。

 

 

 

たまに日本に帰った時、月並みだけど、

「日本特有の美しい四季っていいな」

と思うことがある。

 

 

オーストラリアにも季節はあるけれど、日本ほど明確ではない。

 

そういえば、日本では雪の降りしきる真冬でさえ、波さえあれば、その他のサーファーと同じように海に飛び込んでいた。

 

一般的な感覚からすれば、かなりクレイジーかもしれない。

何がそこまでサーファーを海に駆り立てるのか?

 

その一番大きな理由は、サーフィンが持つ『中毒性』であることは間違いないだろう。

サーフィンでは、報酬系の神経伝達物質『ドーパミン』が異常なほど分泌される。

 

 

そして、良い波の乗っている最中はあからさまに、『マインドフルネス』状態になる。

サーファーの意識は、過去でも未来でもない『今』という空間にすっぽりと収まる。

雑念が入り込む『空白』がそこには1mmもない。

 

 

ランナーズハイにだって頻繁になる。『エンドルフィン』が溢れ出す。

感覚が麻痺して、それまで悲鳴をあげていた筋肉がエネルギーを取り戻す。

体に負担がかからないように、意識を向ける。

 

 

サーファーという人種は、海の中という『非日常性』が好きでたまらないのだろう。

 

 

他のスポーツとは違って、海の中というのは完全に

『日常から切り離された空間』

であり、別世界だ。

 

 

そういう意味では、サーフィンと登山って似ているのかもしれない。

登山家は山に畏敬の念を抱くというが、サーファーは海にそれを抱く。

自然が持つパワーを、肌感覚で知っているからだ。

 

 

洗濯機のように、波の中でぐりんぐりんに巻かれて、波の力で海底まで引っ張られた時なんか、自然の中での人間の非力さを体を張って思い知らされる。

 

 

無風の朝、低気圧が生み出した『うねり』が一本の綺麗な線となって、遥か沖合から入ってくる。

 

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サーファーなら誰でも、このうねりを見た時、歓喜して、腹の底からエネルギーが湧き上がってくるのを感じるはずだ。

 

僕らサーファーにとっては、その長い一本のラインはエネルギーの塊でしかないし、そのパワーを体感レベルで知っているから。

 

そのエネルギーの塊が動いているのを見るだけで、ハラの底から何かが湧き上がってくるのを感じる。

 

抑えがたい興奮を感じる人も多いだろう。たとえ、それが大きすぎて、ポイントがクローズになろうと、時間さえ許すなら、サーファーはそのうねりをただ見に行くだろう。

 

自然のエネルギーを見て、自分の中にエネルギーを感じる。

エネルギーを通して自然と繋がっている、と言っても言い過ぎではないと思う。

 

 

赤ん坊の頃、僕らは他の動物たちと同じように、1ミクロンの無駄もない、合理的な身体の使い方を知ってたし、『今この瞬間を生きる術』を心得ていた。

 

その感覚を、『自我』の発達と同時に忘れていくのだけれど、サーフィンというのはその失った感覚を、自然と『調和』することを通して、僕らにまた少しずつ教えてくれる。

 

人間の認識が追いつかないほど、進化と変化のスピードが加速しているこの時代でも、昔から変わらない『時間』がそこにはある。

 

ここオーストラリアでは、波待ち中にイルカと遭遇することも日常茶飯事だし、運が良ければ沖合の方にクジラの姿も見ることができる。

 

僕は『サイバー空間』と『自然』を、日常的に行き来できるライフスタイルが楽しくて仕方がない。

 

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